アジア号



   
   
 

【協力した、まさかの大物 ユダヤ難民を運んだアジア号】


   樋口季一郎中将はユダヤ難民救済のために、満州国に入国をみとめさせました。この時の上官が、当時関東軍参謀長、のちに首相になる東條英機でした。
次に特別列車をしたててユダヤ人を運ぼうとしました。その数は2万人といわれます。南満州鉄道の総裁は松岡洋右。かつて国際連盟脱退の演説をし、
この後、外務大臣となって日独伊三国同盟、日ソ中立条約を締結します。
  樋口季一郎中将に協力したこの二人は、戦後A級戦犯として汚名を着せられ命を落としましたが、実は、自らユダヤ人を救う政治決断をしているのです。
これに比べ、アメリカ大統領のルーズベルトもトルーマンも、イギリスのチャーチル首相も反ユダヤ政策をとってユダヤ難民の入国を拒否しています。
戦後、戦争加害の責任を一方的に押し付け、日本人にまんまと罪悪感を植え付けたGHQにとって、もっとも知られたくない事実のひとつでしょう。



 


 
 

アンネ●フランク



   
   
 

【「ヒグチ・ルート」を知っていればアンネの一家は屋根裏より満州を選んで助かったはず】


   アンネ・フランクの家族はナチスのユダヤ人狩りから逃れて1934年、オランダ・アムステルダムに移住しました。
オランダがドイツに占領されると、父のオットーは、アメリカに渡航しようとビザ発給を求め、領事館に通いましたがかないません。
追いつめられた一家は、隠れ家に潜んで暮らすことを余儀なくされます。が、2年後の1944年、オランダ人の密告によって、一家は全員収容所に連行され、
アンネも命を落としました。この間アンネが記した13歳から15歳までの多感な少女の日記は、戦後、世界中で読まれることとなり、
当時のナチスの迫害とユダヤ人の過酷な状況が生々しく伝わりました。
  もし、一家に「ヒグチ・ルート」の情報がなんらかの手段で伝わっていたらどうなっていたでしょう。おそらく、一家は屋根裏ではなく、
満州を目指して助かっていたはずです。アメリカもイギリスもユダヤ人を差別して受け入れなかった当時、世界で唯一、ユダヤ人に門戸を開いていたのが日本だったからです。
  東ヨーロッパを抜け、シベリア鉄道の終点オトポール駅から満州に入国し、満州里駅から南満州鉄道に乗車する「ヒグチ・ルート」で2万人のユダヤ難民が救われました。
この情報が伝わっていたら、アンネ一家も脱出に成功し、アンネの日記には冒険と希望に満ちた内容が付け加わったことでしょう。そうなれば、90歳を越した女性ながらも、
アンネ(1929年生まれ)が当時の状況を、あなたの隣で生々しく証言することもあったでしょう。


















   しかし、21世紀の現代、SNSやネット情報が溢れているにもかかわらず、ウイグルやチベット、モンゴルなどで進行中の民族差別、おぞましい迫害や虐殺に、
ユダヤ人を救った、ほかでもない日本人の関心が薄いのはなぜなのでしょう。









 


 
 

スターリン



   
   
 

【スターリンが領土化を狙っていた範囲】


   終戦の三日後、8月18日にソ連は千島列島・占守島への奇襲攻撃を開始、上陸を強行しました。スターリンは日本が降伏した後であっても、
占領という既成事実を作ってしまえば、千島列島をソ連領にし、さらには北海道も占領できると考えたのです。
あわよくば日本の半分を領土にしようとたくらんでいたのです。占守島は小さいので、一日で占領が完了すると高をくくっていました。
ところが、樋口季一郎中将の命により、日本の守備隊は、武装解除を一旦停止、猛反撃を開始、ソ連軍をほぼ殲滅、彼らを一週間にわたり海岸に釘付けにしました。
この間にアメリカ軍が北海道駐留を完了したため、スターリンの目論見は見事に砕け散りました。
  日本降伏三日後にも関わらず、反撃命令を下した樋口季一郎中将。
もしこの英断がなければ、日本は北海道どころか福島県あたりまで共産圏になっていたかもしれません。
よく「外国が攻めてきたら、逃げたらいい」と口にする方がいますが、逃げずに勇敢に戦ってくれた日本兵のおかげで、
わたしたちはいまでも日本語を使う日本国民でいられるのです。日本国憲法には「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して」とありますが、
とても占守島の戦いのいきさつを知っている日本人が書いたとは思えません。



 


 
 

八紘一宇



   
   
 

【五族協和、八紘一宇】


  命からがら東ヨーロッパを抜け、シベリア鉄道の終点オトポール駅までたどり着いたユダヤ難民を、当初、満州国は受け入れようとしませんでした。
ソ連をけん制する防共協定を結んだドイツの機嫌をそこねたくなかったのです。しかし、極寒の地で飢えと寒さに困窮する難民の様子を知らされた樋口季一郎は、
満州国の外務官僚にかけあい「満州国はドイツの属国ではない。ユダヤ人を排斥する必要はどこにもない。これは政治問題ではなく、人道問題である!」と、
急いで救済措置を取るように促します。
  そして陸軍の上官で当時の関東軍参謀長だった東條英機に対し、
「閣下は、ヒトラーのお先棒をかついで、弱い者苛めすることを正しいと思われますか?」と詰め寄りました。
すると、東條英機は反対するどころか
「ひとつ屋根の下、家族のように差別なく、他民族が力を合わせ暮らしていこうという、五族協和、八紘一宇の精神と合致する。
ユダヤ人を受け入れることは満州建国の理念に照らして当然である」と応じました。
そして、南満州鉄道の総裁でのちの外務大臣となる松岡洋右をくどいて特別列車を仕立てて難民を運ぶことに成功します。
  たちまち外交問題となり、ドイツ外務大臣から抗議文が何度も送られてきましたが、
東條英機は「人道上、当然の措置をとったまで」と一蹴し続けました。ユダヤ人差別を行わないことは、すでに日本の方針、国策となっていました。



 


 
 

東洋のシンドラー



   
   
 

【「東洋のシンドラー」だけがメディア露出する理由】


  二年後、杉原千畝氏がリトアニア領事館でユダヤ難民に大量のビザを発行したのはこうした当時の日本政府の外交方針に沿ったものでした。
氏はこの後二等書記官に昇進、ルーマニアに栄転し、勲章まで授与されています。
戦後、杉原千畝氏は政府に逆らってユダヤ難民にビザを発行した「東洋のシンドラー」と、英雄視されていますが、
これは当時の日本政府が実施していた親ユダヤ政策を隠蔽し、個人の単独行動に矮小化したいGHQや戦後メディアの情報操作だと考えられます。
  実は「セントルイス号事件」で、ヨーロッパから脱出してきた汽船に乗った900名以上のユダヤ難民の上陸をアメリカは拒否、ヨーロッパに送り返し、
ホロコーストの犠牲にしています。ですから日本が親ユダヤ政策だったこと、しかも陸軍が人道主義に基づきユダヤ難民救済に率先して動いていた事実は、
日本軍を絶対悪としたいGHQや戦後メディアにとってきわめて不都合で、知られたくない事実です。
樋口季一郎中将がまったくといっていいほど日本国民に無名の理由がそこにあります。
  杉原氏本人も「大したことしたわけではありません、当然のことをしただけです」と戦後、困惑して語っています。
樋口季一郎中将は1941年に「ゴールデンブック」に名前を記載され、杉原千畝氏は1985年に「諸国民の中の正義の人」として顕彰されています。



 


 
 

アメコミ




   
   
 

【1950年代、アメリカン・コミックの題材にまでなったジェネラルヒグチ】


  ユダヤ難民たちはオトポールに到着したものの、満州入国が認められず、駅の周辺にバラックを建てて極寒の窮乏生活を強いられます。
その時、彼らが口々に歌っていたと言われるのがこの曲です。




蓮雷



   
   
 

【愛馬・蓮蕾号】


  終戦後、樋口季一郎中将の愛馬「蓮蕾(れんらい)号」は、札幌の牧場に引き取られました。馬主になった栗林元二郎氏は、樋口季一郎中将の大の信奉者でした。
彼は開拓事業家・教育者で、満州や樺太で陸軍の野戦料理だったジンギスカンを戦後北海道に広めた人物です。ヒツジは寒冷地の衣服、
特に軍服用の羊毛需要を満たすため、満州で大量に飼育されていました。これを戦後、食用に転用、食料難を乗り越えて北海道の食文化として定着させるのに成功しました。
  終戦の翌年、戦争のため中断されていた札幌競馬が再開されることになりました。進駐軍が畑に転用されていた馬場を、わずか一日の突貫工事でレース用に整地させました。
それはアメリカ合衆国の独立記念日を祝う競馬会だったのです。 そこに、あろうことか将軍の軍馬・蓮蕾号が出走することになったのです。敗戦国にとって屈辱的なイベント。
ところが、なんと蓮蕾号は激走の末、競走馬を抑えて優勝してしまうのです。
馬主の栗林氏はもちろん、蓮蕾号の素性を知っている日本人はどれだけ快哉を叫び、溜飲を下げたことでしょう。
  レース後、栗林氏は優勝賞金を持って、尊敬する樋口季一郎中将の元を訪ねます。家族と共に、電気も水道もない家屋での隠遁生活を余儀なくされていた中将でしたが、
賞金は馬主である栗林氏が受け取るのが当然であると固辞します。すると栗林氏は「いいえ、これは私の手柄ではありません。蓮蕾号から閣下への贈り物であります」と言いました。
これに樋口季一郎中将は「退役後、私や部下の中でわが愛馬ほど活躍したものは誰もいないな」と愛馬の快挙を慶び、旧友と共に心から笑いました。



 


 
 

銅像



   
   
 

【樋口季一郎中将・軍服姿の銅像を建立】


  樋口季一郎中将のこうした人類史に残ると言っていい業績を広く周知し、後世に伝えるために、樋口季一郎中将顕彰会は銅像を建立しようと活動しています。
日本に軍服姿の銅像が建てられるのはおそらく戦後初めてのことです。
  戦後の日本人は、戦争責任のすべてを軍部に押し付けるように情報操作されてきました。その結果、当時の職業軍人だけでなく、徴兵され戦地で亡くなった兵隊さえ、
冷淡で批判的態度をとることが日本社会の常識になりました。
現在の国防任務にあたる自衛隊でさえ「戦争を想起させるから自衛隊は町を歩くな」などと、不当な差別的扱いを受けています。
他国ではありえない理不尽な意見なのに、その声に配慮して、ほとんどの自衛隊員は通勤時に制服を着ません。
おかげで、主要国の首都で軍服姿を見かけないのは東京だけという異常さに国民は気がつきません。
  これは、日本をいいなりで逆らうことのできない無能国家にするという、戦勝国や共産勢力の目論見が成果を上げていると言えます。
しかし近年、この状況を利用して、ウイグルやチベット、内モンゴルなどで迫害や虐殺を続ける中国共産党政府が、急速に軍事力を増大させ、
日本を支配下に置こうとする野望を隠さなくなりました。日本社会から自衛隊に対する偏見を払拭することは急務です。樋口季一郎中将の軍服銅像を建てることが、
そのきっかけとなり、日本人が国防に対する正しい認識を持つことを樋口季一郎中将顕彰会は強く望んでいます。



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